はいもしもし儚き命です!

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主に感想・考察・レビューを綴る徒然なる雑記

遠足は目的地に向かう道のりが一番楽しかったと言っても過言ではない

"遠足"と呼ぶものは中学以降はなかったかもしれない。

ということは小学生のころか。

社会見学というイベントでもあったかもしれない。

 

小学生時代となると十何年も前のことなので記憶がおぼろげになりつつあるし

どこに行ったとか、そこでなにをしたとかもうあまり覚えてないんだけど

その目的地に向かう道のりが楽しかったなという印象がすごくある。

思い出補正もあるかもしれないけれど、あながち記憶違いではないんじゃないかと思う。

 

ということでそう思う理由をいろいろ考えてみた。

 

いつもと違う1日のはじまり。気分は高揚している

いつもであれば教室のイスに座り授業を受ける時間。

しかし遠足の日は校庭に並び出発の時間を待つ。

カバンもランドセルではなくリュックを背負う。

 

暴風警報が出て学校が休みになることを純粋に喜ぶ小学生。

いつもの授業が"つぶれる"遠足などのイベントはそれだけで嬉しかった。

いつもいる学校から出たときの開放感。

小学生の気分は高揚している

 

ただ純粋に"話す"ということ。意外に珍しい

"話す"ということをするのは、小学生においてはわりと珍しい貴重な時間である。

特に男子小学生の場合、集まればスポーツをやったりカードゲームやTVゲームをやったりと

なにかをする中での会話はもちろんあるけれど

「お話しよ」

みたいな、"会話"そのものをするということはあまりしない。

 

もちろん給食の時間などで話すということはしていたけど

食べたらすぐ校庭出て遊ぶとかいう感じだったので

やっぱり遠足の道のりほど長い時間話すというのは無かった。

 

だからこそ記憶にも残っているのかもしれない。

目的地に着いてなにかをしたことより

目的地に向かう道のりで話をしたことのほうが

小学生の思い出としては異質な存在となっていて印象強いのかもしれない。

小学生にとって話をするという行為は意外に珍しい 

 

ただ目的地に向かうのではない。遊びながら歩く

ただ純粋に"話す"ということをしていたと言っておきながら矛盾するが、

ただただ話しながら歩いていたかというと落ち着きのない小学生はそんなことできない。

石を蹴りながら歩いたり

前の子のかかとをわざと踏んでみたり

道すがらに友人と同じ苗字の表札があって「お前こんなとこ住んでんの?」とか言ったり

 

小学生は遊びを見つける天才だと思う。

気を引き締めろよという意味を込めての「帰るまでが遠足」という言葉だけど

別の意味で行きも帰りも遠足として楽しむ小学生。

遊びながら歩くというかもはや歩くという遊びをしている

 

思い出補正という観点から

集団で整列して歩くということは大人になったいま滅多なことがない限りしない。

だから、そんなことをしていたなというノスタルジックな気分にさせる部分が良い思い出と感じる要因のひとつだろう。

 

また、個人的には歩くということがいまでも好きなので

ただひたすらに歩いていると記憶がフラッシュバックされるというのもあるだろう

 

おわりに

共感が得られるんだか全く得られないんだかわからないがなんかそんな感じという思いで書いた。

 

この歩きながら話すということを学校行事"歩行祭"として書かれた小説『夜のピクニック』がたまらなくツボ。

小学生じゃなくて高校生だけど。

夜のピクニック (新潮文庫)

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社会人になると飲み会なんかしょっちゅうで上司のつまらない話聞かされたりで逆につらいけど

学生時代はもっと話す場とかあっても良かったんじゃないかと思ったり